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【日刊蒙古人說林彪9-13墜亡事】
送交者: 歌哥 2021年09月17日11:20:25 於 [史地人物] 發送悄悄話


「これは初めて話すが、林彪(りんぴょう)はソ連と內通していたのではないか。つまり、ソ連のスパイだったのだと思う」

 こう切り出したのは元モンゴル外務次官のダラミン?ヨンドン氏である。氏は20年以上も外務次官を務めたモンゴル外交の重鎮。1971年9月の林彪事件當時、外務次官として機密事項を擔當した。中國との交渉はもう一人の次官ビリガ?オルトン氏に任せ、自身は國防省、軍、情報機関、さらには駐モンゴルソ連大使らと共同で事件対応に當たった。
 
 モンゴル政府部內で林彪事件の全容を知る數少ない元高官だ。そのヨンドン氏が初めてジャーナリスト、相馬勝氏の取材に応じ、冷戦時代の中ソ史で「最大の闇」と言われた林彪事件の真相を明かした。以下、相馬氏のレポートである。

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 林彪は文化大革命(1966~1976年)の最中、1969年4月の第9回中國共産黨大會で「毛沢東主席の親密な戦友」で「後継者」とされ、黨副主席や國防相、黨政治局常務委員を兼務して絶大な権勢を振るった。

 ところがその後、林彪は毛沢東と対立し、空軍作戦部副部長だった長男の林立果らが毛沢東暗殺を企てたが失敗。報復を恐れて1971年9月13日未明、妻の葉群や林立果、部下らとともに、中國河北省の避暑地、北戴河近くの山海関飛行場から軍用機でソ連のイルクーツクに向けて逃亡した。ところが、同機は中國國境から350キロ北のモンゴル?ウンドゥルハンで墜落、大破して全員が死亡した。これが「林彪事件」と呼ばれる出來事の中國政府公式見解である。
 
 なぜ中國と対立していたソ連に逃げたのか、墜落は事故だったのか、本當は中國內で殺されたのではないかなど、事件直後から世界中で憶測が飛び交い、林彪事件は「中國現代史最大のミステリー」とされて今に至っている。

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“我是第一次說這個,但我覺得林彪和蘇聯有秘密關係。也就是說,我認為他是蘇聯間諜。”

是蒙古前外交部副部長達拉明永東先生打斷了這一點。他是蒙古國外交領導人,曾擔任外交部副部長20多年。 1971年9月林彪事件時,任外交部副部長,負責保密工作。與中國的談判交由另一位副國務卿比利加·奧爾頓負責,他與國防部、軍方、情報機構和蘇聯駐蒙古大使合作處理此案。
兩次
是蒙古政府部門為數不多的知道林彪案原委的前高官之一。被稱為冷戰時期蘇聯歷史上“最大黑暗”的林彪案,是永東先生在接受記者加谷出出採訪時,首次揭開真相。以下是索馬先生的報告。

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文化大革命(1966-1976)期間,林彪在1969年4月的中共九大上被“毛澤東的親密同志”任命為“接班人”,並被任命為黨的副總書記、國防部長、黨委書記。他還擔任過政治局常務委員,權力巨大。

然而,此後,林彪與毛澤東對質,其長子、空軍作戰部副部長林立國企圖刺殺毛澤東,未果。 1971年9月13日黎明前,他與妻子葉群、林立國及其部下因害怕遭到報復,從中國河北省避暑勝地北戴河附近的山海關機場逃往蘇聯伊爾庫茨克。然而,這架飛機在中國邊境以北350公里的蒙古-溫杜爾汗墜毀,墜毀,全部遇難。這是中國政府對所謂“林彪事件”的官方看法。
兩次
事發後,全世界都在猜測他為何逃往與中國發生衝突的蘇聯,墜機是否是意外,他是否真的在中國遇難。據說是“最大的謎團”並一直持續到今天。

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ヨンドン氏によると、墜落機の中に軍用航空地図があり、北京、ウランバートル、ソ連のイルクーツクに○印が付いていた。林彪機の目的地はイルクーツクだったようだ。

 墜落機はモンゴル軍のレーダーに捕捉されないよう高度約600メートルを低空飛行していたが、機にはそれを可能にする特殊機器が設置されていた。また、ソ連軍の周波數に合わせた無線機や暗號表まであった。すべてソ連製で、羅針盤もソ連のものだった。

「當時は中ソ対立が激しく、中國の最高指導者であっても最先端のソ連製機器をそろえられたのは不自然だ。林彪自身か、あるいは部下が、ソ連軍と特別な関係にあった証拠と言えるのではないか」とヨンドン氏は推測する。

「ソ連は當日、林彪の軍用機がイルクーツクに向かったことを知り、待ち構えていた。ところが、中蒙國境を越えた後、なかなか到着しないため異変に気づき、モンゴル駐留軍に捜索させたのだろう」

 氏は9月30日午前4時、事件の報告書を持ってソ連大使館を訪ねた際、また驚かされた。報告書を受け取った大使は、「あの飛行機には林彪元帥が仱盲皮い郡瑜Δ扦工汀工日Zったというのだ。

「大使は情報の出所を明らかにしなかった。當時、墜落機に誰が仱盲皮い郡摔膜い皮悉丹蓼釘蓼是閳螭wび交っていたので、私は『林彪説』もその一つと捉えていたが、ソ連側は早い段階で墜落機には林彪らが搭仱筏皮い郡長趣虼_信していたようだ」

 事故直後に慌ただしく現場検証したソ連側は、その後、林彪や妻の葉群らが墜落機に仱盲皮い郡長趣頡復_定」するため、なんと遺體の“首実検”に踏み切った。

 同年10月、ソ連國防省法醫學研究所長のビタリ?トミーリン氏とKGB調査部員のアレクサンドル?ザグボズディン氏が墜落現場に派遣された。2人の遺體検証方法はかなり荒っぽいものだった。

 死亡した俔M員たちが葬られた墓を掘り返して遺體を並べると、まず全員の歯を調べた。蟲歯の治療痕、金歯や銀歯の有無を手掛かりに2體を選ぶと、頭部を切斷した。その場で火をおこし、大きな釜に湯を沸騰させると、そこに2つの生首を放り込んだ。


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據永東介紹,失事飛機內有軍用航拍圖,北京伊爾庫茨克、烏蘭巴托、蘇聯用圓圈標出。看來,林彪的目的地是伊爾庫茨克。

墜毀的飛機在大約600米的高度低空飛行,以免被蒙古軍用雷達發現,但飛機配備了特殊設備,使其成為可能。此外,還有一台收音機和一張與蘇聯軍隊頻率相匹配的代碼表。都是蘇聯製造的,指南針也是蘇聯製造的。

“當時中蘇衝突激烈,即使是中國的最高領導人,擁有最先進的蘇軍裝備也是不自然的。林彪本人或他的部下與蘇軍有着特殊的關係可以說,這就是證明,”永東推測。

“當天蘇聯得知林彪的軍機正飛往伊爾庫茨克時,正在等待。然而,在越過中蒙邊境後,他發現了一些不尋常的情況,並派他去尋找。”

9 月 30 日凌晨 4 點,當他帶着事件的報告訪問蘇聯大使館時,他再次感到驚訝。接到報告的大使說:“看來林彪元帥在那架飛機上。”

”大使沒有透露消息來源,當時關於墜機者是誰的消息很多,所以我把林彪當成了其中之一,但蘇聯方面似乎是確信林彪等人很早就在墜毀的飛機上。”

事故發生後,蘇聯立即趕赴現場視察,此後,為了“確認”林彪和妻子葉群在墜機上,他們決定“獵頭”屍體。

同年10月,蘇聯國防部法醫研究所所長維塔利·湯米林先生和克格勃研究小組成員亞歷山大·扎格博茲丁先生被派往墜機現場。驗證他們身體的方法相當粗糙。

死去的船員們挖出埋葬的墳墓,把屍體排成一排時,他們首先檢查了所有人的牙齒。根據蛀牙的治療痕跡和有無金牙或銀牙,選擇兩具屍體,截掉頭部。我當場生火,在一個大水壺裡燒開水,把兩個腦袋扔進去。

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首が十分煮られたところで、モンゴル人の助手に指示して髪の毛や肉片をすっかりそぎ落とし、「しゃれこうべ」2つを持ち去ったのである。その1か月後、2人は再び現場を訪れ、今度は首がない遺體の胸部を切り取って持ち帰った。そして、今度は他の遺體もすべて掘り返し、同じように大きな釜で釜ゆでにして骨だけにすると、1體ずつ梱包して持ち去ったという。

 林彪は中國が抗日戦爭中の1939年から1941年まで、戦闘中の負傷の治療や肺結核の療養のためモスクワの病院で治療を受けていた。ソ連側はその際の頭と胸のレントゲン寫真を保管していたのである。トミーリン氏らは遺體の頭蓋骨などを記録と照合し、林彪であることを確認した。

 その結果は當時の最高指導者であるレオニード?ブレジネフ共産黨書記長とユーリ?アンドロポフKGB議長にだけ報告された。その後、鑑定結果については翌1972年1月のソ連共産黨政治局會議で報告されたが、協議の結果、「林彪死亡を確認したことは極秘とし、中國が公表した場合には再度、対応を検討する」とされたのである。

「対中関係正常化への糸口を斷ち切らず、これ以上、関係を悪化させないためだった」とソ連の知人がヨンドン氏に説明したというが、ヨンドン氏の見方は違う。「ソ連が林彪の死を隠したのは、林彪がソ連と內通していたことを隠すためだろう」

 氏はさらに続ける。「林彪と葉群は1939年から3年間、病気療養の名目でモスクワに住んでいた。この時期に、林彪はモルヒネ中毒になったというのが定説だ。ソ連は、つまり“癢いところに手が屆く”よう世話をしていた。生活費やモルヒネの入手などで恩に着せ、スパイに仕立て上げたと私はみている。

 林彪は最高幹部であり、通常のスパイ活動ということではなく、中ソの関係強化に協力するよう情報提供したり、政策立案を誘導したりしたのではないか。両國の対立が激化した時期にも、ソ連は長期的視野から林彪との関係を維持したと考えられる」

 ヨンドン氏は最後に、「墜落機に殘された林彪や家族、部下の遺留品は、いまもモンゴル政府が管理している」と明かした。今回の取材で歴史の謎の概要が明らかになったが、その証拠は封印されたまま、今年も林彪の命日が近づいた。

※SAPIO2013年9月號<<

https://www.news-postseven.com/archives/20130810_204495.html?DETAIL


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待脖子完全煮沸後,他吩咐蒙古助理將頭髮和肉塊徹底刮掉,並帶走了兩個“雙關語”。一個月後,兩人又回到了現場,這次是將無頭屍體的胸膛切下來帶回了家。然後,他把其他的屍體全部挖出來,放在同一個大鍋里煮,只做骨頭,然後一一打包帶走。

1939年至1941年抗日戰爭期間,林彪在莫斯科一家醫院治療戰傷和肺結核。當時蘇方保留了頭部和胸部的X光片。湯米林和他的同事將屍體的頭骨與記錄進行了核對,確認是林彪。

結果只報告給了當時的最高領導人、共產黨總書記列昂尼德·勃列津涅夫和克格勃主席尤里·安德羅波夫。此後,在1972年1月的蘇共政治局會議上報告了鑑定結果,但經過討論,“林彪的死因是保密的,如果中方公布,我們將再次考慮採取措施。我會做的。 ”

一位蘇聯熟人向永東先生解釋說:“這是為了保留與中國關係正常化的線索,而不是讓關係惡化。”但永東先生的看法不同。 “蘇聯隱瞞了林彪的死訊,大概是為了隱瞞林彪與蘇聯的內部聯繫。”

先生繼續說。 “林彪和葉群從1939年起,以醫療為藉口在莫斯科生活了三年。林彪在此期間對嗎啡上癮,這是一個公認的理論。”我在照顧它。我想靠靠生活費,弄到嗎啡,成了間諜。

林彪是最高行政長官,它可能為加強中蘇關係提供信息和指導政策制定,而不是正常的間諜活動。人們認為,即使在兩國衝突加劇的情況下,蘇聯也是從長遠的角度維護了與林彪的關係。”

最後,永東先生透露,“失事飛機上留下的林彪、他的家人和他的下屬的遺體仍然由蒙古政府管理。”本次採訪揭開了歷史的神秘面紗,但證據依然封存,而今年林彪的逝世紀念日也快到了。

* SAPIO 2013 年 9 月號<<

https://www.news-postseven.com/archives/20130810_204495.html?DETAIL

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基本扯蛋! 聊無新意!







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