| 日語的福音單張(續) |
| 送交者: 遙投 2004年11月18日09:13:00 於 [彩虹之約] 發送悄悄話 |
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救 い(Salvation) 聖書を読み進めると、「悔い改め」がとても大切なことだと気付いてきます。でも、悔い改めとはいったいどのようなことなのでしょうか。 「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」(ルカ13・3) 私たちは悲慘な死に方をした人の話を聞くと恐れます。しかしキリストは「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」と警告されました。悔い改めとは実は「ありのままの自分を認めること」です。私たちは創造主である神様から遠く離れた罪人です。ところがそれを認めないで神様に立ち返らないのなら、悲慘な滅びに入れられます。悔い改めは全ての人に必要なことです。 「『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』」(ルカ16・30) あなたも、神や奇跡を見せてくれたら信じられる、と思いますか。奇跡は聖書のみことばの裏付けがなければ、単なる見せ物に過ぎません。アブラハムは「もしモーセと預言者との教え(=聖書)に耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」と答えました。 黙示録には、人々が神様からの裁きを受けても偶像を拝んで悔い改めない姿が示されています。人は奇跡や困難によっては悔い改めません。悔い改めは聖書のみことばを受け入れるときに起こることです。 「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために來たのです。」(ルカ5・32) イエス・キリストはご自分が地上に來られた目的をこのように語られました。キリストは人々に悔い改めを要求し、そのために「罪人を招いて」おられます。このキリストの招きに応えることが、悔い改めの第一歩です。 キリストが十字架にかけられた時、他に二人の犯罪人もかけられました。一人は自分の苦しみだけを見て、キリストに悪口を浴びせました。しかしもう一人は、十字架の上でも完全だったキリストを見て自分の罪を言い表し、悔い改めに導かれました。 イエス・キリストの下にへりくだって來てください。あなたは自分の真の姿を知らされ、同時に神様の素晴らしい愛を経験するでしょう。 救いの必要性 聖書は私たちに救いを示します。あなたは「救い」は自分と関係ないと思いますか。 例えば、病人にとって自分の病気を直す方法は「救い」です。イエス・キリストは「醫者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」(マルコ二・十七)と言われました。このように病人でなければ醫者も救いも必要ないでしょう。 聖書は、私たちは全て病人だと告げます。身體の病気ではなく、霊の病気です。いのちの源である真の神様から離れた私たちは、霊のいのちを失って「死に至る病」にかかっており、醫者を必要としているのです。 先に引いたみことばは、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために來たのです」と続きます。イエス・キリストこそ全ての人のための醫者なのです。 救いの方法は他にもあるのではないか、と思われるかもしれません。ところがそれはただ一つしかないのです。 私たちを罪人だと宣言しているのは神様ですから、救われるためにはこの神様から罪が除かれたと認められる必要があります。私たちが相手にする方は真の神様です。 この神様が、人間がご自分のもとに來る方法をたった一つだけ定められました。それは身代わりの血が流されるということです。舊約聖書の時代には、それはいけにえの動物たちの血でしたが、不完全なものでした。そこで神様は、私たちの罪を完全に覆い隠すものを用意されました。それが、神の御子イエス・キリストによる十字架の死です。 私はイエス・キリストを救い主と信じた後に、救われたという実感がなかなかありませんでした。救いの確証はどのようにして得るのでしょうか。 たとえで説明しましょう。あなたの借金を誰かが代わって払おうと言われたとき、銀行口座の負債殘高が「0」になっているのを見れば、たとえ現金を見せられなくても安心できます。 もしあなたが見知らぬ土地に來て、駅へ行く道がわからないときはどうしますか。きっとあなたは近くにいる人に「駅へはどう行けばよいでしょうか?」と尋ねるでしょう。親切なその人はあなたに駅への道順を教えてくれます。あなたはお禮を言って、その人の教えてくれた通りに歩き出すでしょう。その時、あなたはとても不思議なことをしているのです。 聖書のみことばも同じです。なぜ私はイエス・キリストを救い主と信じ、聖書のみことばを真実だと認めるでしょうか。それはイエス・キリストが信頼できるからであり、聖書のみことばが信頼に値するものだからです。 どうしてそう言えるでしょう。それは、私が自分自身で聖書を読んで理解したからです。 「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ人への手紙10・17) とありますが、まずキリストについてのみことばを聞いたら、本當にそうなのかどうかご自分で聖書を開いて確認されることをお勧めします。あなた自身が聖書を毎日読んで、神様に祈って導きを求めるならば、必ずみことばへの確信が與えられ、信仰を持つことができます。 聖書自身はイエス・キリストについてこう証言しています。 「見よ。わたしは、シオンに、 信仰を持つのは素晴らしいことです。あなたは聖書の確かさを実感し続け、あなたの人生を通して聖書が真実であることを証しすることができるのです。 「狹い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狹く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7・13~14) 「狹い門」は「いのちに至る門」であり、「広い門」は「滅びに至る門」です。すなわち、人間の死後には「いのち」と「滅び」があり、多くの人々が滅びに向かって進んでいるのです。 「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3・36) 「滅び」とはどのようなものでしょうか。イエス・キリストはルカの福音書16章において明確に告げられました(19~31節)。 この金持ちは「ハデス(死者の魂が入る場所)で苦しみながら」(23節)過ごしているとあります。死後は感覚がなくなることはありません。人は死後も現在の個性を持ち続け、意識があり、感覚があるのです。 「『……私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』」(24節)と金持ちは訴えています。神様からの救いのチャンスを拒んだ魂は、神様を無視した罪を問われて、炎の苦しみの刑罰を受けるのです。 そしてこの世の終わりに、「大きな白い御座」に座っておられる方による最後の審判が行われます。そして、イエス・キリストを信じなかった者は永遠の裁きに入れられます。 では、イエス・キリストを救い主と信じた者はどうなるのでしょうか。実はクリスチャンには大きな希望があります。それは、死んだ後に天に行って、イエス・キリストにお會いすることです。使徒パウロもそのことを切望していました。 「……私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」(ピリピ1・23) イエス・キリストはクリスチャンを心から愛していのちを捨てて下さり、今は勝利者として天において栄光に輝いておられるお方です。そのようなお方にお會いするのは何という喜びであり誇りであり、楽しみでしょうか。しかもクリスチャンには數々の祝福も用意されています。イエス・キリストを信じることによって與えられる幸いは計りしれません。 ある人は聖書のみことばを利用して「世の終わりが○年○月○日に來る」と言って、多くの人々を惑わしています。しかし、イエス・キリストはこう言われました。 「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイの福音書24・35~36) イエス・キリストが知らないことを人間が知っているはずがありません。時期について語る人には注意が必要です。聖書が時期について沈黙するのは、私たちが一日も早く滅びから救われるようにとの配慮なのです。 現在は「今は恵みの時、今は救いの日です」(コリント人への手紙第二6・2)という時代です。しかし、終わりが來ます。イエス・キリストが救われた信者を迎えに來られる時です。 「主は、號令と、御使いのかしらの聲と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って來られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き殘っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と會うのです。」(テサロニケ人への手紙第一4.16~17) この後に起こる出來事は『ヨハネの黙示録』によく記されています。 「見よ。わたしはすぐに來る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを攜えて來る。」(ヨハネの黙示録22・12) |
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