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給wjbh姐妹,日語的福音單張
送交者: 遙投 2004年11月18日09:13:00 於 [彩虹之約] 發送悄悄話

聖 書(Holy Bible)
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 聖書は今から約4500年前に書き始められ、1500年間に渡って書かれた六十六巻の書物が合わさったものです。著者は様々な時代の、様々な職業の人々です。書かれた時代も著者もバラバラなのに、聖書は驚くほど統一がとれています。

 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(第2テモテ3・16)

 聖書自身は、聖書の著者をこのように紹介しています。聖書は神様の霊感を受けて人間が書いたものであり、その真の著者は神様ご自身です。


 神様は何のために聖書を書かれたのでしょうか。

 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたし(イエス・キリスト)について証言しているのです。」(ヨハネ5・39)

 聖書は私たちに多くのことを教えますが、最も重要なことはイエス・キリストです。何故なら、それは人間にとって必要不可欠だからです。人生の根本に関わる問題を解決する唯一のお方がイエス・キリストです。イエス・キリストこそ聖書の主題です。

 さて、あなたが聖書を読むとき、もし聖書を一般の書物と同じと考えたならば、現代の思潮に合わない古めかしい言葉としか思えないでしょう。しかし、聖書を神のことばであるととらえると、私たちは聖書の真理の光に照らされます。

 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119・105)
 聖書はあなたが今どんな狀態にあるか、そしてどこへ向かって歩むべきなのかを教えます。聖書こそ、私たちが信頼すべき人生のガイドなのです。
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真の神(The God)
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神の存在

 聖書は神の存在についてこのように述べています。
 「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼ら(=人間全て)に弁解の餘地はないのです。」(ローマ1・20)
「弁解の餘地はない」と言い切るほどに、神の存在は人間に明らかなのでしょうか。

 聖書はまた、「……神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです」(使徒17・27)とも言っています。つまり、人間には神について真剣に考え、神を求める必要があることを教えています。

 先のローマ書からの引用のすぐ前には、「神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです」(19節)とあって、神はご自身について人間にもう十分に知らせています。それでも神についてわからないというのは、人間が神を求めないからです。人間には神を求める責任があり、神について探り求めるなら神を知ることができます。ですから、神を知らないと言うのは神を求める責任を放棄しているのですから、「彼らに弁解の餘地はない」のです。

 神の存在についての証拠はいろいろあります。先に「世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、」とありましたように、神については私たちが住んでいるこの世界のあり方によって理解できます。太陽系や宇宙の構造を知ると、私たちはそれを創られた神が偉大な力と正確さを持ったお方だとわかります。私たちの體の中の微細な仕組みについて知るならば、神は秩序と暖かい配慮を持ったお方だとわかります。世界は神のご性質について雄弁に語っているのです。

 神についてもっとも正確に語っているのは聖書でしょう。かつて神は人間に直接ご自身の言葉を語られました。そしてその人々は、自分に語られた神の言葉を書き記しました。それらが聖書として完成した時、神は直接人間に語ることを止めました。神の御心やご計畫は聖書の中に完全に明らかにされたからです。聖書こそ、人間に対する神のメッセージなのです。

 ところで、私はコンピュータで電子メールを使っていますが、その私のところに時々全く見ず知らずの方からメールが屆きます。でも、その方はちゃんと自己紹介をしていますので、私は安心してその方とメールのやりとりをします。

 たとえ見たことがない人でも、手紙や電子メールなどが屆いてその人の素性がわかれば、私たちはその人の存在を疑うことはありません。神も同じです。聖書は神の存在を明らかにしています。神は確かに存在し、確かにあなたを覚えておられるのです。
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人のすがた(Man)
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人とはどのようなものか?

 進化論によれば、人間の先祖はサルだそうです。日本ではこの進化論の考え方が大勢を占めています。あるクリスチャンの子供さんが、學校で人間の先祖はサルだと教えられたとき、それは違うと答えたら、先生から怒られたそうです。

 私はその話を聞いて、とても不思議に思いました。もしそうなら、なぜ人間は正しく生きなければならないのでしょうか。サルから進化した無目的な存在が人間であると本當に信じているのならば、先生は子供たちに正しい生き方をせよと教えることなどできないと思います。

 「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」(ローマ1・21)

 真の神様のご存在は私たちの住む世界の素晴らしさを見るならば、誰にでも理解できます。神様は人間を造られたお方ですから、人間は神様に対して責任者です。その責任を負いたくないので、人間は神様を認めず、神様以外のもの(たとえば進化論など)に頼ろうとします。人間は本質的に神様が嫌いなのです。

 しかし、人間ほど神様から愛された者もいません。神様は他にも何萬種の生物を造られましたが、それら全てに対して人間は特別な存在です。

 神様は最初の人アダムをエデンの園に置かれたとき、こう言われました。
 「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2・16~17)

 神様はアダムに対して食べてよい多くの木と、食べてはならない一本の木を示されました。神様は人間に自由に選択させたのです。ご自分の都合のよいように造っても何の問題もない人間に、神様は自由意志をお與えになりました。そして、人間の選択を神様は真に尊重なさいます。今日に至るまで、神様は同じように人間に選択をさせておられ、現在多くの人々がこの自由意志によって神様を認めない選択をしていますが、神様はその人々に対しても、食物や幸いな環境を與えておられるのです。

 実に、人間は神様なしには生きられません。私たちの生命を維持するための全てのものは、神様によって與えられ、備えられています。
 神様はモーセに示した十戒の中で、「父と母を敬え。殺してはならない。盜んではならない。」などを命じられました。學校內で殺人事件が多発するアメリカでは、このモーセの十戒を教室に掲示すべきだと連邦議會に提案されました。人間が人間らしく生きるためには、神様が必要なのです。
 「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒17・28)
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罪(Sin)
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罪とは何か?

 先日私の知り合いが一人亡くなりました。まだ二一歳でした。その知らせを聞いたとき、私は何とも切なくなりました。彼の笑顔が思い出されました。人間は、たとい若くて生命力に満ちあふれていても死から逃れることはできません。聖書には、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」(ヘブル9・27)とあります。

 人はなぜ死ぬのか。これは古來より人類が考え、悩み続けてきた大問題です。これに対する聖書の回答は簡潔明瞭なものです。
 「罪から來る報酬は死です。」(ローマ6・23)
 すなわち、人は罪人だから裁かれ、その結果死ぬのだというのです。

 罪には三つの段階があると思います。一つ目は「法律を破ること」です。これは私たちの社會秩序を守るために厳罰に処せられますね。二つ目は「良心に反することを行うこと」です。私たちの心には良心があります。それに反して、道で困っている人を見かけても見ないふりをすると、心の中に良心の呵責が起こります。三つ目は「神様を認めないこと」です。この世界も私たちも神様によって造られました。ところが人々はその神様を認めず、自分の好きなように歩んでいます。これはほとんどの人が悪いとは感じません。むしろ、神様と聞くと非常識だと笑ったりします。

 この一見どうでもいいと思われ、「法律を破る」よりも軽いと感じられる罪。これこそが人を滅びに定める決定的なものです。

 聖書には、イスラエルの民が「私たちの罪とは何か。」と尋ねたときの答えがあります。

 「あなたがたの先祖がわたしを捨て、--主の御告げ。--ほかの神々に従い、これに仕え、これを拝み、わたしを捨てて、わたしの律法を守らなかったためだ。」(エレミヤ16・11)

 イスラエルの民は外見上は社會秩序を保ち、人々の関係も大きな問題はなかったでしょう。それにもかかわらずバビロン帝國によって滅ぼされました。それは彼らが真の神様を捨て去ったからでした。

 「神様を認めないこと」が最も重大な罪です。その愛なる神様を認めないことが他の二つの罪の根源でもあるのです。

 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄譽を受けることができず、」(ローマ3・23)

 聖書はすべての人が罪人であると告発します。そのことは私たちの心の中を見ればわかります。もし人々が、心の中が映るテレビをつけて街を歩くとしたら、恥ずかしさと恐ろしさのために一歩も進めないでしょう。また、すべての人が死ぬという事実からもわかります。そして、すべての人が神様を認めないことからもわかります。

 私たちはすべて罪人であり、すべて罪からの救いを必要としている者なのです。
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イエス・キリスト(Jesus Christ)
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1.イエス・キリストの生涯

 イエス・キリストは今から約二千年前にユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。両親はヨセフとマリヤです。しかし、二人が結婚する前に、聖霊によって処女マリヤから生まれました。それはイエス・キリストがアダムに始まる罪の性質を受け継がないためでした。真の父は神様です。

 イエス・キリストが三十歳になってバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったとき、天からこう告げる聲が聞こえました。

 『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』(マタイ3・17)

神様はイエス・キリストを「わたしの愛する子」とお呼びになり、喜ばれました。

 親不孝な子は親の悲しみでしょう。ところが神様はイエス・キリストについて「わたしはこれを喜ぶ」と言われました。すなわち、三十歳までのイエス・キリストの歩みは神様がお喜びになるほどの完璧なものでした。

 イエス・キリストは三十歳になるまで父ヨセフの仕事を継いで大工として働かれました。母マリヤからは弟や妹が生まれました。この間、イエス・キリストは父や母に仕え、弟妹のよき兄として、完全な歩みをされたのです。

 三十歳を過ぎた後、イエス・キリストは三年半の間人々に福音を宣べ伝え、ご自身が救い主であることを証しされました。その間にイエス・キリストと寢食を共にした弟子の一人であるペテロはこう証言しています。

 「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」(第1ペテロ2・22)

 たとえ師と弟子の関係とはいえ、三年半も一緒に過ごしていれば何かしらの欠點が見られるものです。しかし、イエス・キリストにはそのようなことは一つもありませんでした。これもイエス・キリストには罪がなかったことの証拠です。

 イエス・キリストは罪を犯さなかったばかりではありません。悩む者、苦しむ者の友となり、深い愛を示された方です。

 イエス・キリストは悪霊につかれたゲラサ人の男を救い出すために、わざわざガリラヤ湖を渡られました。心にいやしがたい悩みを抱えて人の愛に解決を求めていた女性に道を示すために、わざわざスカルという町に立ち寄られました。一日中歩き回って疲れ切っているにもかかわらず、家に押し寄せてくる人々の病気を一人一人いやされました。イエス・キリストに救いを求めて拒まれた者はただの一人もいません(それは十字架の上で苦しまれた時も例外ではありません)。

 『醫者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために來たのです。』(マルコ2・17)

2.イエス・キリストの十字架

 十字架は大変ポピュラーなもので、アクセサリーにもよく用いられます。十字架のついたネックレスなどを身につけた女性(最近は男性も?)を時々見かけます。しかし、十字架はそのように軽々しく扱われるべきではなく、人間にとって重大な意味のあるものです。

 十字架はローマ帝國で行われていた最もむごたらしい死刑の方法の一つであり、そこにかけられる者は極悪の大犯罪人に限られていました。しかし、イエス・キリストは全く罪のないお方でした。ユダヤの指導者たちのねたみによって無実の罪を着せられたのですが、イエス・キリストは逃れようとはしませんでした。

 イエス・キリストはご自分がこの世に來られた目的についてこう語られました。

  「……わたしが來たのは、羊(=人間)がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10・10~11)

 イエス・キリストは全ての人間の罪を身代わりに負って、ご自分のいのちを捨てるためにこの世に來られたのです。

 神の御子であられるイエス・キリストが十字架にかかって死なれたということは、私たちにいろいろなことを教えます。

 まず第一に、神様は私たち人間をこよなく愛しておられるということです。私たちは神様によって目的をもって造られた者なのに、その目的を拒んで自分勝手に歩み、神を神と認めない人生を送っていました。そのような私たちは裁かれて當然なのに、神様は私たちを滅びから救おうとされて、私たちの罪の裁きをイエス・キリストに身代わりに負わせました。それがイエス・キリストの十字架です。

  「神は、実に、そのひとり子をお與えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3・16)

 第二に、神様は真実に聖であられるということです。神様はご自身の前に完全に歩まれたイエス・キリストを私たちの身代わりとして裁かれました。それほどに私たちの罪は赦しがたいものであり、神様はその罪の責めを私たち自身に問わないでイエス・キリストに負わせることによって、ご自身が恵み深い方であると同時に、斷じて罪を処罰される聖なるお方であることを示されました。

 イエス・キリストは十字架上で死なれるとき、こう言われました。

  「完了した。」(ヨハネ19・30)

 これは神様の罪への責めが満たされ、私たちの救いが完成したことを告げる聲でした。

 イエス・キリストの十字架こそ、神様の愛と聖とが交わる不思議な、素晴らしいものです。

3.イエス・キリストの復活

 イエス・キリストについての話で最も抵抗があるのがこの復活でしょう。しかし、イエス・キリストの復活は事実です。これにはいくつかの客観的証拠があります。

 第一に、イエス・キリストの死體がなくなりました。その墓の入り口は大きな石でふさがれていたので、誰かが盜むことはできません。

 第二に、イエス・キリストは復活した姿を多くの信者たちに現しました。一度に五百人以上の弟子たちの前に現れたこともありました。五百人が同時に幻覚を見るとは考えられません。

 第三は、その後の弟子たちの劇的な変化です。イエス・キリストを見捨てたペテロが、クリスチャンを迫害したパウロが、後にはイエス・キリストの復活を語り、死の危険にさらされても言葉を曲げませんでした。人は噓やでたらめのために命をかけるでしょうか。

 以上の事実を最も合理的に説明する方法はただ一つ、イエス・キリストは聖書が語る通りに復活された、ということです。

 「……神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」(使徒3・15)

 イエス・キリストが復活されたということは、信じる者にとって重要な意味があります。

 「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」(第1コリント15・14)

 復活はイエス・キリストについて三つのことを証明します。

 第一に、イエス・キリストの生涯は勝利であったことです。イエス・キリストは死で終わったのではなく死をうち破ったお方です。

 第二に、イエス・キリストが永遠に生きておられることです。イエス・キリストは世界の創造される前から存在しておられ、今も生きて私たちのために働いておられるお方です。

 第三に、イエス・キリストのみことばが確実なものであることです。イエス・キリストは何度もご自分が死んで後三日目に復活することを弟子たちに告げておられ、その通りに復活されました。最も不可能なことがみことば通りに実現したのですから、復活はイエス・キリストの他のみことばも、ひいては聖書全體が信頼すべき神のことばであることを証明します。

 「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13・8)

 このことから聖書を、特に福音書を読む意味を教えられます。福音書はイエス・キリストの伝記と言われますが、決してそれだけではありません。伝記は死んだ人の生前の業績を語ります。しかし、イエス・キリストは復活されて、今も全く変わらない方として天におられます。今生きている方を知るために、私たちは聖書を読むのです。
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