石破茂發表戰後80周年感言:繼承歷代內閣立場,強調文官統制重要性
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10月10日,日本首相石破茂發表了在戰後80周年之際關於先前大戰的“內閣總理大臣
感言”。此次感言以不經內閣會議敲定的形式發布。石破在開頭基於戰後50年、60
年、70年首相談話表示,歷史認識方面繼承着歷代內閣的立場。
石破指出,指出由於政府失去了對軍部的統制而發展為開戰,強調政治優越於軍事的
“文官統制”重要性。
石破分析稱,1941年日美開戰前年輕官僚等精英雲集的“總力戰研究所”雖然預測
“日本必敗”,但未能阻止開戰的原因在於戰前沒有合理整合政治與軍事的機制。
石破認為,在戰後最嚴峻複雜的當前安全環境下,必須把歷史教訓銘刻於心。他主張
稱,通過每個國民對先前的大戰與和平的方式進行主動思考,和平國家的基礎將得到
進一步強化。
石破還提及1940年帝國議會上批評中日戰爭、大部分內容從會議記錄中被刪除的的前
眾議員齋藤隆夫“反軍演說”,還提到議會對軍方的審查職能欠缺。他回顧道,言論
控制加大導致媒體轉而採取積極支持戰爭的論調,這一點也不容忽視。
首相石破茂10日發表戰後80周年感言後,日本在野各黨褒貶不一。
國民民主黨黨首玉木雄一郎表示肯定。他指出石破“洞察到導致戰爭的體制問題,這
一點很新穎,具有一定的意義。”玉木向媒體稱,“感覺到首相是想促使大家警惕走
向極端的民意以及受此影響的政治運作方式。”他強調,“這令人想到政治家和媒體
都需要謙虛地面對歷史。”
立憲民主黨幹事長安住淳表示,“對戰後和戰前進行總結,決不是壞事”。不過,他
對石破在公明黨宣布退出執政聯盟的同一天發表感言諷刺稱,“他作為掌管者的資格
令人懷疑。”
日本維新會共同黨首藤田文武也對發表時期和形式提出質疑。他稱目前處於首相交替
時期,並且此次感言以“不經內閣會議敲定、搞不清楚正式還是非正式的形式發表,
這種做法有待商榷。”
另一方面,日本共產黨委員長田村智子指責稱,“完全沒有表示對侵略戰爭和殖民統
治的反省。”
對石破的“個人見解”,中方如何解讀?
中方《環球時報》採訪報道指出,石破茂“個人見解”的意義在於,對戰前日本政治
和體制缺陷進行深入反思,這在某種程度上指向當前日本國內蔓延的歷史修正主義,
也可以看做是對高市早苗所代表的右翼保守勢力的一種委婉警告。但對於嚴重缺乏正
確全面歷史認知的日本社會而言,石破茂發出的警告實際作用有限,也不能從根本上
改變日本社會扭曲的歷史觀和修正主義思想。
專家稱,在當前的日本政治生態中,石破茂作出這番談話,需要政治勇氣,還是應當
予以肯定。他的講話聚焦日本為何走上戰爭道路,也借古諷今,委婉批評了當前日本
國內有所蔓延的民粹主義、狹隘的民族主義和排外主義風潮。
值得注意的是,在談及歷史認知問題時,石破茂僅表明“繼承歷代內閣立場”,日本
TBS電視台稱其“迴避了直接提及戰爭責任”。石破茂沒有明確對日本侵略歷史進行直
接道歉,僅籠統表示繼承迄今首相談話中的反向和道歉表態,實際上還是迴避了日本
的“加害責任”,是對歷史問題缺乏徹底反思的表現,沒有滿足亞洲鄰國的期待,也
註定日本在歷史問題上難以獲得鄰國的充分信任。中方會繼續敦促日本政府和政治家
正視侵略歷史,深刻反省加害責任,以實際行動維護中日關係的政治基礎。
日本首相石破茂發表“戰後八十年之際內閣總理大臣所感”。全文如下:
【中文】
自上次大戰結束以來,已經過去了八十年。
在這八十年間,我國始終作為一個和平國家而前行,竭盡全力為世界的和平與繁榮作
出貢獻。今日日本的和平與繁榮,正是建立在包括陣亡者在內的無數人的寶貴生命與
艱難歷史之上。
我在三月訪問了硫黃島,四月在菲律賓卡利拉亞瞻仰了菲島戰歿者紀念碑,六月出席
了沖繩全戰歿者追悼儀式並參觀了姬百合和平紀念資料館,八月又出席了廣島、長崎
原爆死難者慰靈儀式及終戰紀念日全國戰歿者追悼儀式。通過這些行程,我再次鄭重
地將對那場大戰的反省與教訓銘記於心。
在此之前,於戰後五十年、六十年、七十年的節點上,內閣總理大臣均曾發表談話。
對於歷史認識問題,歷屆內閣的立場,我亦予以繼承。
然而,在以往三次談話中,對於“為何無法避免那場戰爭”這一核心問題,並未給予
充分觸及。即便是在戰後七十年談話中,也僅有“日本試圖以武力來解決外交與經濟
的僵局,而國內政治體制未能成為制止這一行為的力量”這樣的表述,但未進一步深
入論述。
為何當時的國內政治體系無法成為制約力量?
經歷第一次世界大戰之後,世界已進入“總力戰”的時代。根據當時內閣設立的“總
力戰研究所”及陸軍省設立的“秋丸機關”等機構的預測,日本的失敗幾乎是必然
的。許多有識之士也意識到戰爭艱難。
政府及軍部高層明知如此,卻仍未能作出避免戰爭的決斷,反而一頭陷入了魯莽的戰
爭,最終犧牲了無數國內外無辜的生命。儘管前首相米內光政曾警示:“為避免漸貧
而致暴貧,務必慎之”,但為何仍無法扭轉大戰之路?
值此戰後八十年之際,我希望與全國國民一同深思這一問題。
(一)大日本帝國憲法的制度性問題
首先,應指出當時體制上的缺陷。戰前的日本並無能將政治與軍事適當統合的機制。
在《大日本帝國憲法》之下,軍隊的指揮權——即統帥權被視為獨立,制度上不存在
“文人統制”的原則,也就是說,政治(文人)在政治與軍事關係中並未被制度性地
確立為優位。
內閣總理大臣的權限亦極為有限。在帝國憲法下,包括首相在內的各國務大臣是“平
等”的關係,雖稱“內閣首班”,但並未被賦予指揮統率整個內閣的權力。
即便如此,至日俄戰爭時期為止,元老仍能在外交、軍事、財政方面起到綜合協調的
作用。作為曾為武士、深諳軍事的政治家,元老們得以理解並控制軍權。借用丸山真
男的話來說,“元老與重臣等超憲法性存在的媒介”,在實現國家意志的一元化過程
中發揮了關鍵作用。
隨着元老相繼離世,這種非正式的調節機制逐漸衰退。大正民主時期,政黨試圖通過
政治來統合軍事。
在第一次世界大戰引發的世界巨變中,日本成為國際協調的主要一員,並擔任國際聯
盟常任理事國。1920年代的政府政策,如幣原外交,即體現了對帝國主義擴張的抑制。
1920年代的輿論對軍方極為嚴苛,政黨主張大規模裁軍。軍人因此倍感壓抑,這種反
彈被認為是昭和時期軍部崛起的原因之一。
原本,統帥權僅限於作戰指揮(軍令),而有關預算及體制建設(軍政)的問題,仍
被解釋為需由內閣中的國務大臣輔弼。也就是說,雖無文人統制制度,但元老與政黨
通過政治運作彌補了這一缺陷。
(二)政府的失控
然而,隨着時間推移,統帥權的意義被軍方不斷擴大化解釋,成為排除政府與國會對
軍政、預算參與與控制的工具。
在政黨內閣時期,政黨之間為爭奪政權互相揭露醜聞,失去了國民信任。1930年,反
對黨立憲政友會為反對立憲民政黨內閣,與海軍部分人士勾結,以倫敦海軍裁軍條約
的批准問題為由,指責政府“干犯統帥權”,激烈攻擊內閣。儘管最終勉強批准條
約,但政黨的信任度大幅下滑。
1935年,憲法學者、美濃部達吉提出“天皇機關說”,卻被立憲政友會當作攻擊政府
的工具,軍部亦捲入,演變成重大政治事件。岡田啟介內閣試圖以“應由學者討論”
的態度迴避政治責任,最終仍屈服於軍方壓力,兩度發布“國體明徴聲明”,否定天
皇機關說,並查禁美濃部著作。
自此,政府對軍部的控制逐漸喪失。
(三)議會的失職
本應對軍隊實施監督的議會,也逐步喪失了功能。
最典型的例子是齋藤隆夫議員除名事件。1940年2月2日,齋藤在眾議院本會議上發表
“反軍演說”,批評戰爭泥沼化並質詢政府的戰爭目的。陸軍認為該演說“侮辱軍
隊”,強烈反彈並要求其辭職。最終以296票贊成、7票反對的壓倒性結果通過其除
名。該事件成為議員履行職責的罕見實例,但當時的會議記錄至今仍有三分之二被刪除。
在極為重要的預算審議方面,議會也未能發揮應有的監督作用。自1937年起設立“臨
時軍事費特別會計”,至1942—45年間幾乎全部軍費都列入其中。其預算內容未公
開,審議於秘密會議中倉促進行,形同虛設。
即便戰況惡化、財政枯竭,陸海軍仍為組織利益與面子激烈爭奪預算。
此外,不應忘記,自大正末至昭和初期的十五年間,包括三位在任首相在內的多名政
治家被國粹主義者或青年軍官暗殺,幾乎全是重視國際協調、主張以政治控制軍隊者。
五·一五事件、二·二六事件等暗殺與暴動,極大壓制了文官自由討論軍政與預算的
空間。
(四)媒體的墮落
另一個不可忽視的問題,是媒體。
1920年代,媒體對日本的對外擴張持批判態度。記者石橋湛山曾主張“應放棄殖民
地”。但自“九一八事變”起,媒體論調急轉,積極支持戰爭——因為“戰爭報道暢
銷”,報紙發行量激增。
1929年美國大蕭條後,歐美經濟衰退,實行高關稅保護主義,日本出口受挫。經濟不
振與民族主義高漲相疊,德國出現納粹、意大利崛起法西斯。思想界中也流行“自由
主義、民主主義、資本主義時代已終結、美英時代已終結”,全體主義與國家社會主
義逐漸被接受。
在此背景下,關東軍發動“滿洲事變”,短短一年半占領數倍於日本本土的領土。報
紙大肆報道,國民為之迷惑,民族主義進一步高漲。
日本外交方面,儘管吉野作造曾對“滿洲事變”的軍部行為,清澤洌對松岡洋右的國
際聯盟退會予以嚴厲批評,但自1937年秋起,隨着言論統制加強,對政策的批評被封
殺,輿論僅剩對戰爭的支持。
(五)情報收集與分析的失敗
當時的日本政府是否能正確認知國際局勢,也值得反省。
1939年8月,正當日德在籌劃反蘇同盟時,德國卻與蘇聯簽署了《互不侵犯條約》,使
平沼騏一郎內閣以“歐洲天地出現複雜怪奇之新形勢”為由總辭職。這顯示政府在國
際與軍事情報上,既無法充分收集,也缺乏正確分析與共享的機制。
(六)對今日的啟示
戰後日本,文民統制已制度化。《日本國憲法》明確規定內閣總理大臣及其他國務大
臣必須為文人。《自衛隊法》亦規定自衛隊受首相指揮。
憲法規定首相為內閣首長,內閣對國會負連帶責任,從制度上確保了內閣統一性。
並設立國家安全保障會議,加強外交與安全保障的綜合協調。政府在情報收集與分析
體制上也大幅改進,仍需與時俱進。
日本已針對“政治與軍事無法統合”“軍部以統帥權獨立之名獨走”的苦澀歷史作出
制度性修正。然而制度若無正確運作,終將徒具形式。
政治家必須具備駕馭自衛隊的能力與見識,須不斷努力正確理解並運用文民統制制
度。須以不屈從無責任的民粹、不隨波逐流的政治家氣節與責任感為信念。
自衛隊亦應以專業立場,積極向政治層說明國際安全形勢、裝備與部隊運用狀況。
政治則負有跨越組織壁壘、實現整合的責任。若因部門對立而迷失國家利益,便重蹈
覆轍。應汲取陸海軍因各自組織邏輯相爭、軍令軍政缺乏協調而使國家陷入戰爭的歷
史教訓。
政治必須以國民整體利益與福祉為念,以長遠視角作出理性判斷。若責任不明、局勢
僵化,社會易被“勇敢口號”與“冒險方案”所誘。海軍永野修身總長曾將開戰比作
“手術”,稱“雖有憂慮,但唯有決心除國難”;陸軍大臣東條英機亦曾勸近衛文麿
“人有時必須閉眼從清水舞台跳下”。這種以情緒取代理性判斷的傾向,導致國家航
向迷失,不可再犯。
防止政府誤判的“剎車”,正是議會與媒體。
國會必須充分行使憲法賦予的權能,對政府進行適當監督。政治不可迎合一時輿論,
不可為黨派私利與個人保身而犧牲國益。
健全的言論空間必不可少,包括懷有使命感的新聞業。戰爭時期媒體煽動輿論,使國
民陷入無謀戰爭的結果,必須深刻反省。應警惕過度商業化,拒絕狹隘民族主義、歧
視與排外主義。
包括安倍前首相遇襲事件在內,任何以暴力踐踏政治、威脅言論自由的行為,絕不可
容忍。
所有這一切的基礎,是“從歷史中學習”的態度。直面過去的勇氣與誠實,傾聽他者
主張的謙遜與寬容,正是本來的自由主義精神與健全而堅韌的民主主義的核心。
正如溫斯頓·丘吉爾所言,民主並非完美的政治體制——它耗時、代價高、亦可能犯錯。
正因如此,我們必須在歷史面前保持謙虛,將教訓深銘於心。
在自衛與威懾方面,保持必要的力量極其重要。我並非否定威懾理論的人。在當前安
全環境下,這是負責任的安全保障政策所必須面對的現實。
同時,若一個國家中擁有無可匹敵力量的組織脫離民主統制而暴走,民主將瞬間崩
潰。而若文人政治家誤判,也可能將國家帶向戰爭。因此,文民統制與適當的政軍關
系,其必要性與重要性永遠不能被低估。政府、議會、軍隊、媒體皆須常懷此識。
齋藤隆夫在反軍演說中指出:“世界歷史即戰爭史,勝者並非正義,而是強者征服弱
者。”他警告,若無視此現實,以“聖戰”之名誤國家百年大計,將釀成悲劇。因主
張現實主義政策而被議會除名。
翌年,在眾議院防空法委員會上,陸軍省竟宣稱:“空襲時市民避難,將被視為喪失
戰的意志”,從而加以否定。
這些雖屬遙遠往事,卻足以警醒我們:議會放棄職責、精神主義橫行、人命與人權被
輕視,其後果何等可怖。不正視歷史,便無以開拓未來。尤其當今日本處於戰後最嚴
峻複雜的安全環境之下,更應重新認識“從歷史中學習”的重要性。
如今,擁有戰爭記憶的人愈來愈少,記憶風化令人擔憂。正因如此,年輕一代在內的
每一位國民,都應主動思考那場大戰與和平的意義,並將之傳承,以此進一步鞏固日
本作為和平國家的基石。
我將與全國國民一道,銘記那場大戰的諸多教訓,竭盡所能,確保此類慘禍永不再現。
令和七年(2025年)十月十日
內閣總理大臣 石破茂
【日語】
原文:(內閣総理大臣所感) 戦後80年に寄せて
先の大戦の終結から、80年がたちました。
この80年間、我が國は一貫して、平和國家として歩み、世界の平和と繁栄に力を盡
くしてまいりました。今日の我が國の平和と繁栄は、戦沒者をはじめとする皆様の
尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。
私は、3月の硫黃島訪問、4月のフィリピン・カリラヤの比島戦沒者の碑訪問、6月の
沖縄全戦沒者追悼式出席及びひめゆり平和祈念資料館訪問、8月の広島、長崎におけ
る原爆死沒者・犠牲者慰霊式出席、終戦記念日の全國戦沒者追悼式出席を通じて、
先の大戦の反省と教訓を、改めて深く胸に刻むことを誓いました。
これまで戦後50年、60年、70年の節目に內閣総理大臣談話が発出されており、歴史
認識に関する歴代內閣の立場については、私もこれを引き継いでいます。
過去三度の談話においては、なぜあの戦爭を避けることができなかったのかという
點にはあまり觸れられておりません。戦後70年談話においても、日本は「外交的、
経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。國內の政治シ
ステムは、その歯止めたりえなかった」という一節がありますが、それ以上の詳細
は論じられておりません。
國內の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか。
第一次世界大戦を経て、世界が総力戦の時代に入っていた中にあって、開戦前に內
閣が設置した「総力戦研究所」や陸軍省が設置したいわゆる「秋丸機関」等の予測
によれば、敗戦は必然でした。多くの識者も戦爭遂行の困難さを感じていました。
政府及び軍部の首脳陣もそれを認識しながら、どうして戦爭を迴避するという決斷
ができないまま、無證蕬檎送護Mみ、國內外の多くの無辜(むこ)の命を犠牲
とする結果となってしまったのか。米內光政元総理の「ジリ貧を避けようとしてド
カ貧にならぬよう注意願いたい」との指摘もあった中、なぜ、大きな路線の見直し
ができなかったのか。
戦後80年の節目に、國民の皆様とともに考えたいと思います。
(大日本帝國憲法の問題點)
まず、當時の制度上の問題が挙げられます。戦前の日本には、政治と軍事を適切に
統合する仕組みがありませんでした。
大日本帝國憲法の下では、軍隊を指揮する権限である統帥権は獨立したものとさ
れ、政治と軍事の関係において、常に政治すなわち文民が優位でなくてはならない
という「文民統制」の原則が、制度上存在しなかったのです。
內閣総理大臣の権限も限られたものでした。帝國憲法下では、內閣総理大臣を含む
各國務大臣は対等な関係とされ、內閣総理大臣は首班とされつつも、內閣を統率す
るための指揮命令権限は制度上與えられていませんでした。
それでも、日露戦爭の頃までは、元老が、外交、軍事、財政を統合する役割を果た
していました。武士として軍事に従事した経歴を持つ元老たちは、軍事をよく理解
した上で、これをコントロールすることができました。丸山真男の言葉を借りれ
ば、「元老・重臣など超憲法的存在の媒介」が、國家意思の一元化において重要な
役割を果たしていました。
元老が次第に世を去り、そうした非公式の仕組みが衰えたのちには、大正デモクラ
シーの下、政黨が政治と軍事の統合を試みました。
第一次世界大戦によって世界に大きな変動が起こるなか、日本は國際協調の主要な
擔い手の一つとなり、國際連盟では常任理事國となりました。1920年代の政府の政
策は、幣原外交に表れたように、帝國主義的膨張は抑制されていました。
1920年代には、世論は軍に対して厳しく、政黨は大規模な軍縮を主張していまし
た。軍人は肩身の狹い思いをし、これに対する反発が、昭和期の軍部の台頭の背景
の一つであったとされています。
従來、統帥権は作戦指揮に関わる軍令に限られ、予算や體制整備に関わる軍政につ
いては、內閣の一員たる國務大臣の輔弼(ほひつ)事項として解釈哂盲丹欷皮い�
した。文民統制の不在という制度上の問題を、元老、次に政黨が、いわば哂盲�
よってカバーしていたものと考えます。
(政府の問題)
しかし、次第に統帥権の意味が拡大解釈され、統帥権の獨立が、軍の政策全般や予
算に対する政府及び議會の関與・統制を排除するための手段として、軍部によって
利用されるようになっていきました。
政黨內閣の時代、政黨の間で、政権獲得のためにスキャンダル暴露合戦が行われ、
政黨は國民の信頼を失っていきました。1930年には、野黨・立憲政友會は立憲民政
黨內閣を揺さぶるため、海軍の一部と手を組み、ロンドン海軍軍縮條約の批准を
巡って、統帥権干犯であると主張し、政府を激しく攻撃しました。政府は、ロンド
ン海軍軍縮條約をかろうじて批准するに至りました。
しかし、1935年、憲法學者で貴族院議員の美濃部達吉の天皇機関説について、立憲
政友會が政府攻撃の材料としてこれを非難し、軍部も巻き込む政治問題に発展しま
した。ときの岡田啓介內閣は、學説上の問題は、「學者に委ねるより外仕方がな
い」として本問題から政治的に距離を置こうとしましたが、最終的には軍部の要求
に屈して、従來通説的な立場とされていた天皇機関説を否定する國體明徴聲明を二
度にわたって発出し、美濃部の著作は発禁処分となりました。
このようにして、政府は軍部に対する統制を失っていきます。
(議會の問題)
本來は軍に対する統制を果たすべき議會も、その機能を失っていきます。
その最たる例が、斎藤隆夫凶h院議員の除名問題でした。斎藤議員は1940年2月2日
の凶h院本會議において、戦爭の泥沼化を批判し、戦爭の目的について政府を厳し
く追及しました。いわゆる反軍演説です。陸軍は、演説は陸軍を侮辱するものだと
これに激しく反発し、斎藤議員の辭職を要求、これに多くの議員は同調し、賛成296
票、反対7票の圧倒的多數で斎藤議員は除名されました。これは議會の中で議員とし
ての役割を果たそうとした稀有(けう)な例でしたが、當時の議事録は今もその3分
の2が削除されたままとなっています。
議會による軍への統制機能として極めて重要な予算審議においても、當時の議會は
軍に対するチェック機能を果たしていたとは全く言い難い狀況でした。1937年以
降、臨時軍事費特別會計が設置され、1942年から45年にかけては、軍事費のほぼ全
てが特別會計に計上されました。その特別會計の審議に當たって予算書に內訳は示
されず、凶h院・貴族院とも基本的に秘密會で審議が行われ、審議時間も極めて短
く、およそ審議という名に値するものではありませんでした。
戦況が悪化し、財政がひっ迫する中にあっても、陸軍と海軍は組織の利益と面子
(めんつ)をかけ、予算獲得をめぐり激しく爭いました。
加えて、大正後期から昭和初期にかけて、15年間に現役首相3人を含む多くの政治家
が國粋主義者や青年將校らによって暗殺されていることを忘れてはなりません。暗
殺されたのはいずれも國際協調を重視し、政治によって軍を統制しようとした政治
家たちでした。
五・一五事件や二・二六事件を含むこれらの事件が、その後、議會や政府関係者を
含む文民が軍の政策や予算について自由に議論し行動する環境を大きく阻害したこ
とは言うまでもありません。
(メディアの問題)
もう一つ、軽視してはならないのはメディアの問題です。
1920年代、メディアは日本の対外膨張に批判的であり、ジャーナリスト時代の石橋
湛山は、植民地を放棄すべきとの論陣を張りました。しかし、満州事変が起こった
頃から、メディアの論調は、積極的な戦爭支持に変わりました。戦爭報道が「売れ
た」からであり、新聞各紙は大きく発行部數を伸ばしました。
1929年の米國の大恐慌を契機として、歐米の経済は大きく傷つき、國內経済保護を
理由に高関稅政策をとったため、日本の輸出は大きな打撃を受けました。
深刻な不況を背景の一つとして、ナショナリズムが昂揚(こうよう)し、ドイツで
はナチスが、イタリアではファシスト黨が台頭しました。主要國の中でソ連のみが
発展しているように見え、思想界においても、自由主義、民主主義、資本主義の時
代は終わった、米英の時代は終わったとする論調が広がり、全體主義や國家社會主
義を受け入れる土壌が形成されていきました。
こうした狀況において、関東軍の一部が満州事変を起こし、わずか1年半ほどで日本
本土の數倍の土地を占領しました。新聞はこれを大々的に報道し、多くの國民はこ
れに幻惑され、ナショナリズムは更に高まりました。
日本外交について、吉野作造は満州事変における軍部の動きを批判し、清沢洌は松
岡洋右による國際連盟からの脫退を厳しく批判するなど、一部鋭い批判もありまし
たが、その後、1937年秋頃から、言論統制の強化により政策への批判は封じられ、
戦爭を積極的に支持する論調のみが國民に伝えられるようになりました。
(情報収集・分析の問題)
當時、政府をはじめとする我が國が、國際情勢を正しく認識できていたかも問い直
す必要があります。例えば、ドイツとの間でソ連を対象とする軍事同盟を交渉して
いる中にあって、1939年8月、獨ソ不可侵條約が締結され、ときの平沼騏一郎內閣は
「歐州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として総辭職します。國際情勢、軍
事情勢について、十分な情報を収集できていたのか、得られた情報を正しく分析で
きていたのか、適切に共有できていたのかという問題がありました。
(今日への教訓)
戦後の日本において、文民統制は、制度としては整備されています。日本國憲法
上、內閣総理大臣その他の國務大臣は文民でなければならないと定められていま
す。また、自衛隊は、自衛隊法上、內閣総理大臣の指揮の下に置かれています。
內閣総理大臣が內閣の首長であること、內閣は國會に対して連帯して責任を負うこ
とが日本國憲法に明記され、內閣の統一性が制度上確保されました。
さらに、國家安全保障會議が設置され、外交と安全保障の総合調整が強化されてい
ます。情報収集・分析に係る政府の體制も改善されています。これらは時代に応じ
て、更なる進展が求められます。
政治と軍事を適切に統合する仕組みがなく、統帥権の獨立の名の下に軍部が獨走し
たという過去の苦い経験を踏まえて、制度的な手當ては行われました。他方、これ
らはあくまで制度であり、適切に哂盲工毪長趣勝堡欷小ⅳ餞我饢釘虺嗓筏蓼護蟆�
政治の側は自衛隊を使いこなす能力と見識を十分に有する必要があります。現在の
文民統制の制度を正しく理解し、適切に哂盲筏皮い歡悉聞Δ匾扦埂o責
任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持(きょうじ)
と責任感を持たなければなりません。
自衛隊には、我が國を取り巻く國際軍事情勢や裝備、部隊の哂盲摔膜い啤熼T家
集団としての立場から政治に対し、積極的に説明し、意見を述べることが求められ
ます。
政治には、組織の縦割りを仱暝餞ā⒔y合する責務があります。組織が割拠、対立
し、日本の國益を見失うようなことがあってはなりません。陸軍と海軍とが互いの
組織の論理を最優先として対立し、それぞれの內部においてすら、軍令と軍政とが
連攜を欠き、國家としての意思を一元化できないままに、國全體が戦爭に導かれて
いった歴史を教訓としなければなりません。
政治は常に國民全體の利益と福祉を考え、長期的な視點に立った合理的判斷を心が
けねばなりません。責任の所在が明確ではなく、狀況が行き詰まる場合には、成功
の可能性が低く、高リスクであっても、勇ましい聲、大膽な解決策が受け入れられ
がちです。海軍の永野修身軍令部総長は、開戦を手術にたとえ、「相當の心配はあ
りますが、この大病を癒すには、大決心をもって、國難排除に決意するほかありま
せん」、「戦わざれば亡國と政府は判斷されたが、戦うもまた亡國につながるやも
しれぬ。しかし、戦わずして國亡びた場合は魂まで失った真の亡國である」と述
べ、東條英機陸軍大臣も、近衛文麿首相に対し、「人間、たまには清水の舞台から
目をつぶって飛び降りることも必要だ」と迫ったとされています。このように、冷
靜で合理的な判斷よりも精神的・情緒的な判斷が重視されてしまうことにより、國
の進むべき針路を誤った歴史を繰り返してはなりません。
政府が誤った判斷をせぬよう、歯止めの役割を果たすのが議會とメディアです。
國會には、憲法によって與えられた権能を行使することを通じて、政府の活動を適
切にチェックする役割を果たすことが求められます。政治は一時的な世論に迎合
し、人気取り政策に動いて國益を損なうような黨利黨略と己の保身に走っては決し
てなりません。
使命感を持ったジャーナリズムを含む健全な言論空間が必要です。先の大戦でも、
メディアが世論を煽(あお)り、國民を無證蕬檎蘇T導する結果となりました。
過度な商業主義に陥ってはならず、偏狹なナショナリズム、差別や排外主義を許し
てはなりません。
安倍元総理が尊い命を落とされた事件を含め、暴力による政治の蹂埽à袱澶Δ�
ん)、自由な言論を脅かす差別的言辭は決して容認できません。
これら全ての基盤となるのは、歴史に學ぶ姿勢です。過去を直視する勇気と諏g
さ、他者の主張にも謙虛に耳を傾ける寛容さを持った本來のリベラリズム、健全で
強靭(きょうじん)な民主主義が何よりも大切です。
ウィンストン・チャーチルが喝破したとおり、民主主義は決して完璧な政治形態で
はありません。民主主義はコストと時間を必要とし、ときに過ちを犯すものです。
だからこそ、我々は常に歴史の前に謙虛であるべきであり、教訓を深く胸に刻まな
ければなりません。
自衛と抑止において実力組織を保持することは極めて重要です。私は抑止論を否定
する立場には立ち得ません。現下の安全保障環境の下、それが責任ある安全保障政
策を遂行する上での現実です。
同時に、その國において比類ない力を有する実力組織が民主的統制を超えて暴走す
ることがあれば、民主主義は一瞬にして崩壊し得る脆弱(ぜいじゃく)なもので
す。一方、文民たる政治家が判斷を誤り、戦爭に突き進んでいくことがないわけで
もありません。文民統制、適切な政軍関係の必要性と重要性はいくら強調してもし
過ぎることはありません。政府、議會、実力組織、メディアすべてがこれを常に認
識しなければならないのです。
斎藤隆夫議員は反軍演説において、世界の歴史は戦爭の歴史である、正義が勝つの
ではなく強者が弱者を征服するのが戦爭であると論じ、これを無視して聖戦の美名
に隠れて國家百年の大計を誤ることがあってはならないとして、リアリズムに基づ
く政策の重要性を主張し、凶h院から除名されました。
翌年の凶h院防空法委員會において、陸軍省は、空襲の際に市民が避難すること
は、戦爭継続意思の破綻になると述べ、これを否定しました。
どちらも遠い過去の出來事ではありますが、議會の責務の放棄、精神主義の橫行や
人命・人権軽視の恐ろしさを伝えて余りあるものがあります。歴史に正面から向き
合うことなくして、明るい未來は拓(ひら)けません。歴史に學ぶ重要性は、我が
國が戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に置かれている今こそ、再認識されなけれ
ばなりません。
戦爭の記憶を持っている人々の數が年々少なくなり、記憶の風化が危ぶまれている
今だからこそ、若い世代も含め、國民一人一人が先の大戦や平和のありようについ
て能動的に考え、將來に生かしていくことで、平和國家としての礎が一層強化され
ていくものと信じます。
私は、國民の皆様とともに、先の大戦の様々な教訓を踏まえ、二度とあのような慘
禍を繰り返すことのないよう、能(あた)う限りの努力をしてまいります。
令和7(2025)年10月10日
內閣総理大臣 石破茂